THE MECHANISM OF RESEMBLING

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Information

finished
Date: June 8 (fri) – July 1 (sun). 2018
2018年6月8日(金) – 7月1日(日)
Hour: 12:00 – 19:00
Closed on Monday(月曜休廊)
Place: EUKARYOTE(ユーカリオ)
Jingumae, Shibuya-ku, Tokyo 3-41-3


Statement

THE MECANISM OF RESEMBLING

There are three in the world. Same, Different and Resembling.

Shusaku ARAKAWA

Humans, ever since being human beings, have produced a work of art. They continued to desire the same form which is called a works of art.  And they carved the history by the difference of contingency which inevitably occurs in between them. So, we had to continue to fight on the difference between the same work of art. However, we is prohibited such a barren disputes now and here.

The problem is that this picture is resembling to that picture, and that sculpture is not resembling this sculpture. In other words, it is the only problem that this world is resembling to that world.

Our world is resembling to the art of Renaissance. There is that perspective in our world, and our space is resembling to that color. In other words, our world is resembling to this world.

Why you can be sure this resembling. Because our bodies are resembling to the human’s who started making the work of art. Thus, that human is resembling and have being resembling to me.

However, how is resembling? After all, the mystery is the one. Anyway and anywhere, our work is for this body and that body. For the resembling of inevitable body occur in between them.

Our skin as a surface is resembling to the form of the relief which is carved from the natural rock (Yusuke Suga). If our skin which is disguised our body form is the forth surface that follows the gas, the liquid and the individual, put in this body in between the blinking of the fifth surface whici appears in this modern age (Houxo Que). Its color refuse to be picked up by the spectrum which is visualised the particles (Shingo Aruga). In the interior of that color, non sensitive world grows wild witout input and output (Goro Murayama). The Big Bang of that world would like to be resembling this sound of pulse that surprise us every morning (Nobuaki Ito). However, that’s nothing to be compared to what I love you(Saito Yugo).

We will inverts the perspective to building a new body. Of course, our attempt will be mistaken. However, this is not just a failure. It will be the great mistake for this and that the world (Taichi Hanafusa).

I should have liked to produce a good book. This has not come about, but the time is past in which I could improve it.

Wittgenstein


世界には3つしかない。同じ、違う、似ている。

荒川修作

人間は、人間になって以来、ずっと芸術作品を制作してきた。芸術作品と呼ばれる、同じ形のものを欲望しつづけてきた。そして、それらのあいだに必然的に生じる偶然の違いによって、歴史を刻んできた。だから、わたしたちは同じ芸術作品同士の違いをめぐって争い続けることになった。しかし、わたしたちは、そんな不毛な争いを、いまここで、禁止する。

問題は、この絵があの絵と似ていることであり、あの彫刻がこの彫刻と似ていないことだ。つまり、この世界があの世界と似ていることだけが問題なのだ。

わたしたちの世界は、あのルネッサンスの芸術と似ている。わたしたちの世界にはパースペクティブがあり、わたしたちの空間はあの色に似ている。つまり、わたしたちの世界はこの世界に似ている。

なぜ、この類似性を確信できるのか。それはわたしたちの身体が、あの芸術を創り始めた人間たちと似ているからだ。だから、あの人はわたしに似ているし、ずっと似ていた。

しかし、似ているとは、どういうことか。結局のところ、謎はひとつなのだ。とりあえずのところ、目下わたしたちの作業はこの身体と、あの身体に向けられる。そのあいだに偶然に生じる、必然的な身体の類似性に。

さて、わたしたちの皮膚という界面は、自然の岩石から彫り出されるレリーフの形と似ている(須賀悠介)。わたしたちの身体のフォームを仮装する皮膚が、気体と液体と個体のあいだに生じる界面に続く第4の界面なら、現代に出現した第5の界面の明滅のあいだにこの身体を差し挟もう(Houxo Que)。その色は、素粒子を可視化する光のスペクトルに回収されることを拒む(有賀慎吾)。あの色の内部では、わたしたちの全く感知しない世界が、インプットもアウトプットもなくただ自生している(村山悟郎)。あの世界のビッグバンも、きっとわたしたちを毎朝驚かせるこのパルスの音に似ているだろう(伊東宣明)。しかし、わたしがあなたを愛していることに比べれば、そんなことはどうでもよいことだ(斉藤有吾)。

わたしたちは、パースペクティブを反転し、新たな身体を建築する。もちろん、わたしたちの試みは失敗するだろう。しかし、これは単なる失敗ではない。この世界とあの世界のための、大いなる失敗だ。(花房太一)

いい本を作りたかった。けれどもそうならなかった。だが私には手を入れる時間が、もうない。

ヴィトゲンシュタイン


Text

written by Taichi HANAFUSA (Founder / Art Critic)

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加速度gの減速−−Houxo Queについて

ストリート出身HouxoQueは光をテーマにディスプレイを使用した作品でめざましい活躍を見せるアーティストだ。彼の代表作《16,777,216》では、ディスプレイで表示可能な色の組み合わせ、赤(Red):256色×緑(Green):256色×青(Blue):256色=合計16,777,216色を人間には認識不可能なスピードで明滅させる。そして、その上に蛍光塗料を擦り付け、ブラックライトで発光させる。

いまわたしは蛍光塗料を〈擦り付け〉と書いた。《16,777,216》は絵の具を乗せた板を、水平に置かれたディスプレイに擦り付けて制作される。したがって、この作品はディスプレイを支持体にした版画作品である。

さて、グリーンバーグ以後、絵画とはその平面性を追求されたものと定義されるようになった。この定義にしたがえば、“THE MECHANISM OF RESEMBLING”に展示される《NOUMENON》と《Blood Resembling》は、絵画である。

グリーンバーグのいう平面性とはすなわち、重力のことである。ジャクソン・ポロックのペインティングを考えてみれば分かりやすい。イーゼルに立てかけられたキャンバスに筆で絵の具をペイントする際には、筆圧によってその圧力が画面の中で変化する。一方、ポロックの作品の圧力は一定である。ポロックは地面に敷かれたキャンバスの上に、筆についた絵の具を垂らす。筆から滴る絵の具はポロックの動きとは無関係に重力加速度gでキャンバスに落下する。それは画面上のどこをとっても変わらない。こうして、完全に平面的な絵画が出来上がる。つまり、平面性とは重力加速度gの別名だったのだ。

《NOUMENON》では、ポロックと同様に透明のアクリル絵の具が加速度gでディスプレイに到達している。そして、絵の具の粘着力によって、ディスプレイの明滅が、重力と結合される。わたしたち人間が認識可能な16,777,216色の光が、いまだ謎でしかない重力と結合している。自明性と謎のあいだに、透明性がある。

壁画として制作された《Blood Resembling》を描くために、Queは消化器を使った。約10メートルほどの高さまで絵の具を届かせるためには、消化器の圧力が必要だった。一見したところ、《Blood Resembling》には、《NOUMENON》のような平面性はないように思われる。しかし、消化器から噴射された絵の具にも、同様に加速度gは働いている。ただし、絵の具を減速させる力として。

ポロックの、あるいはグリーンバーグの平面性は、界面の片側しかなかった。重力という界面には2つの方向がある。加速させる力と、減速させる力、その両方があって初めて、平面性を追求すべき正統な絵画が現れる。2つの作品によって、ついにモダニズム絵画が完成されたのだ。

しかし、わたしたちは、重力の加速させる力と減速させる力によって現れる界面を知っているのではないか?あるいは、その界面を持っているのではないか?

胸に手を当てれば、加速と減速のビートが聞こえる。それは、身体という界面を描くビートだ。

だから、絵画は身体に似ている。

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身体の位置−−有賀慎吾について

Global Positioning Systemを使ったことがあるだろうか。GPSの略称なら、みな聞き覚えがあるだろう。いまや、誰もが持っている携帯電話の端末には、まず間違いなくGPSが搭載されている。World Wide Webに繋がれていないときでも、GPSは作動している。あなたの位置は、いまも誰かに見られている。

しかし、あなたの位置とは、どこなのだろう。あなたは、いま、どこに在るのだろう。

有賀慎吾が黄色と黒色に取り憑かれたのは、この位置を自らの手で支配するためだった。

黄色は謎の色だ。三原色RGBの中から赤Redと緑Greenを一対一の割合で混ぜた色(R, G, B)=(255, 255, 0)に該当する。赤と緑のあいだにあって、この黄色は、空間を充填する。《human topology-BNF2018》の黄色い界面の下には、黄色に充填された空間が発生する。その中で、わたしたちは色をはっきりと認識することができない。ここでいう色とは、般若心経の色即是空、空即是色という言葉にある「色」である。つまり、空に対する実在すべてを指す。黄色に充填された空間にあって、すべてが「色」となるということは、すべてが実在として等価に、あるいは透過に、位置することだ。ここでは、誰がGPSを作動させても無意味だ。なぜなら、わたしの位置は、黄色という「色」として、身体の外側に無数に降り立っているのだから。

一方の黒色は、あらゆる光を吸収する。強力な重力によって、あらゆる物体だけでなく光までの飲み込んでしまう位置を、ブラック・ホールと呼ぶのはそのためだ。だから、黄色い界面の上に浮いた黒色の球体は、ブラック・ホールなのだ。ただし、界面の上から見下げられるときにはただの球体である。それは、界面の下から見上げられたときにだけ、ブラック・ホールになる。したがって、このブラック・ホールは、強力に上昇する重力の位置として存在している。そして、このブラック・ホールもまた、光までをも吸収していしまう以上、GPSからは不可視のものとなる。そこでは、何も反射しない。

こうして、GPSから逃れたわたしたちは、また別のトポロジーに支配されてしまうことになるのだ。そこから、逃れる方法は、あるだろうか。

外側に無数に降り立つ身体と、無限に強力な重力に引き裂かれて、それでも身体の位置を自らの手で支配すること。これが、有賀の挑戦だ。

いまのところ、《human topology scape-#001》のような映像作品によるイメージしかできないのが現実だ。ここで描かれる身体は、新たな身体の戯画でしかない。わたしたちはこの映像作品を前に、熟考に入る。

この身体は、わたしたちの身体と似ている。しかし、一体どこが似ていて、どこが似ていないのだろうか。わたしたちの身体と似た身体の持ち主は、この宇宙のどこにいるのだろうか。この身体の位置は、あの身体の位置と、似ている。

わたしたちは、そのメカニズムを解明しなければならない。特異点を超えたとしても、ポスト・ヒューマンの身体を位置するために。

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無記への回答−−伊東宣明について

京都在住のアーティスト伊東宣明は、死ぬまでアーティストを続けなければならない。いや、死んでからもアーティストで在り続けるしかない。伊東は自らの運命を、自らの手と牛の生肉を使って、反転する。

“THE MECHANISM OF RESEMBLING”の会場となるユーカリオの3フロアすべてに、伊東の代表作《生きている/生きていない》のビートが流れている。それは、伊東が胸に当てた聴診器から心音のビートを聞きながら、目の前に置かれた牛の生肉を拳で叩く音だ。現在では、生音かデジタル加工によって、映像に様々な音声をつけることができるようになったが、かつては映像の効果音は、様々なモノを使って、それと似た音を作成する必要があった。実際、心臓のビートは生肉を叩くことによって作られていたそうだ。したがって、《生きている/生きていない》は心臓の効果音を作成している映像作品だということになる。しかし、デジタルで音声の作成が容易になった現代、このような行為は無意味ではないのか。なぜ、伊東は過去の技術を使用するのか。

そもそも、映像の中で伊東は何をしているのだろうか。行為には目的があるはずだ。たとえば、効果音を作るという目的があれば、その行為は理解できる。ところが、伊東の行為には目的がない。たしかに、芸術作品を作るという目的があるのかもしれないが、それならばこの作品の芸術的価値とはどこにあるのだろうか。

さて、わたしたちが伊東の単純極まりない行為を見て、混乱するのは当然である。なぜなら、映像を観賞するわたしたちの眼の前で、彼はいま〈生きている〉のだから。したがって、この作品の芸術的価値を判断したいのであれば、わたしたちは、〈生きている〉ことを定義し、その価値判断をしなければならないのだ。

ところで、仏教において、釈迦が回答を避けたテーマのことを無記という。その中の一つに「生命と身体は同じか?」という問いがある。釈迦はこの問いに答えるかわりに、よく知られた「毒矢のたとえ」について話す。ここに、毒矢に射抜かれた人がいたとする。周りの人は治療しようとするのだが、本人は誰がこの矢を射たのか、どのような矢がささったのか、毒の種類はなにか、などと考え続けている。そうしているあいだに治療が間に合わず死んでしまった、という話だ。ここたとえを通して伝えたかった釈迦の答えは、考える前に矢を抜いて治療しろ、ということになるだろうか。

しかし、いま、“THE MECHANISM OF RESEMBLING”の会場で、伊東宣明の《生きている/生きていない》を見たわたしたちなら、このように答えられる。

「生命と身体は同じか?」
−−生命もまた身体に似ている。
−−どのように似ているかは、伊東さんが知ってるよ。

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死のオートポイエーシス−−村山悟郎

オートポイエティックな制作から生まれる麻ひもを使った作品群で、世界的な活躍をみせる村山悟郎は、“THE MECHANISM OF RESEMBLING”のために、映像作品を制作した。

《phenomenon of the bubble gum》で、必死に風船を膨らませようとするサングラスの少年。彼はインストラクション通りに、自らの唇や歯を、不器用に動かす。わたしたちは、いつから風船ガムをふくらませられるようになったのだろうか。そう言えば、最近、風船ガムを噛むことなどめったになかった。前に風船ガムを膨らませたのはいつだっただろう。はるか昔に膨らませたあの感覚を頼りにイメージしてみる。きっと、あなたは風船ガムをきれいに膨らませられる自信があるだろう。

このように、長いあいだ行っていなかった行為でも、ガイダンスや指示書なしに、何を考えることもなく、行為できてしまうことを、身体知という。たとえば、あなたはいつ自転車に乗っただろう。それが10年前だったとして、おそらくあなたは自転車に乗ることができるだろう。5歳のときに、初めて、自転車に乗れるようになるまで、幾度となく擦り傷を作り、泣きながら練習したのに、なぜ、10年間も自転車に乗っていなかったのに、難なく乗れるか。それは、自転車に乗るという知(ち)が、脳によって認識されるのではなく、身体に記憶されているからだ。だから、これらを身体知と呼ぶ。

しかし、実のところ、本当に風船ガムの膨らませて方を知っているのは、わたしの身体ではない。ガムの膨らませ方についての記憶を持っているのは、ガムそれ自体なのだ。そして、わたしたちはガムの身体に、自らの身体を結合する。そのとき、ガムがわたしの身体であり、わたしの身体がガムになる。あるいは、ガムが私を膨らませているのだ。したがって、わたしの身体はいま、文字通り、外側に膨らんだ。

ここまで読んできたあなたは、煙に巻かれているような気がしただろう。しかし、考えてみてほしい。なぜ、あなたがガムでないと言い切れるのか。なぜ、あなたが自転車でないと言い切れるのか。あるいは、なぜガムがあなたではないと言い切れるのか。一体、あなたの身体はどこから、どこまでなのか。

それでも、あなたはまだ疑問に思うだろう。わたしたちの身体は生きているけれど、ガムや自転車は生きていない。もし、わたしたちがガムや自転車になってしまえば、わたしたちは死んでしまうではないかと。

たしかに、そうだろう。ガムも自転車も生きているとは言えない。しかし、たとえ、それらが死んでいたとしても、なぜ、そこに切り閉じられた生命がないと言い切れるのだろう。

オートポイエーシスの理論では、生命はインプットもアウトプットもなく自生している。それならば、ガムや自転車にだって、オートポイエーシスはあるに違いない。たとえ、それらが生きていないもの、死んでいるものであっても、そこには死のオートポイエーシスが在る。

したがって、問題は次のように更新された。わたしの身体とガムは、どのように似ているのか。

生のオートポイエーシスは、死のオートポイエーシスにそっくりだ。

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レリーフの憂鬱−−須賀悠介について

あるとき須賀悠介が、わたしに宣言したことを強烈に覚えている。オレはレリーフの作家なんだ。彫刻家や画家や版画家という言葉はあるが、レリーフの作家(レリーファー?)という表現は聞いたことがない。しかし、たしかに、須賀はいつもレリーフの作家だった。

荒川修作へのオマージュとしてつけられた展覧会のタイトル“THE MECHANISM OF RESEMBLING”に、須賀は真正面から応えた。だから、わたしもそれを受け止めなければならない。

詩には詩で応答しなければならない。たとえ、それが東京に生きるわたしを憂鬱にさせても。

−−−
猿は棒なんて投げなかったんだ。ぼくらはそんなに暴力的でも政治的でも社会的でもない。ただ、棒を持って、地面に線を引いた。そこには、線があったんだ。石には身体があったんだ。鉄には模様があったんだ。だから、ぼくは彫ったんだ。

ぼくは世界を彫っている。どろどろとした、このゲル状の世界を、彫り続けている。ぼくには身体が見えたんだ。誰かが言っていた。世界は肉なんだ。だから、ぼくの身体もこの世界も肉なんだ。

アラカワ:車が道路の真ん中を走っているなんておかしいんだ。車は人間の身体より、小さくなくちゃいけないんだ、そう思うだろ?

スガ:はい。

アラカワさん、あなたは死んでしまいました。『死ぬのは法律違反です』という本まで書いたのに。でも、知っています。あなたは、死んでなどいないことを。あなたは、死ぬことなどできなかったのだということを。だから、マウンドから降りたあなたの次に、ぼくがリリーフします。

だって、ぼくはレリーファーだから。


Information

finished
Date: June 8 (fri) – July 1 (sun). 2018
2018年6月8日(金) – 7月1日(日)
Hour: 12:00 – 19:00
Closed on Monday(月曜休廊)
Place: EUKARYOTE(ユーカリオ)
Jingumae, Shibuya-ku, Tokyo 3-41-3

Opening Reception

finished
Date: 2018.6.8(fri)18:00~20:00

Party

finished
Date: 2018.6.8(fri)20:00〜22:00
Fee: ¥3,000
PlaceCITRUS

Yasuo KOBAYASHI+CANCER

finished
小林康夫+CANCER
Date: 2018.6.29(fri)20:00〜
Fee: ¥2,000(Student: ¥1,500, junior high school students and younger children are free)
Place: on Sundays(WATARI-UM Museum B1)
ワタリウム美術館地下
Guest: Yasuo KOBAYASHI(Modern philosophy, Studies of Culture and Representation)
小林康夫(現代哲学、表象文化論)
CANCER: Taichi HANAFUSA, Shingo ARUGA, Yugo SAITO, Yusuke Suga, Goro MURAYAMA, Houxo QUE
花房太一、有賀慎吾、斉藤有吾、須賀悠介、村山悟郎、Houxo Que
More Info

Tokyo Immoral Critic#6

finished
東京不道徳批評#6
Date: 2018.6.17(sun)19:00〜21:00
Fee: ¥1,000(おやつ付き)
Guest: Mare ISAKARI(Art Critic), Keisuke KATSUKI(Artist)
飯盛希(美術批評)、香月恵介(アーティスト)
CANCER: Taichi HANAFUSA,Houxo QUE
花房太一、Houxo Que

Tokyo Immoral Critic is the Art Critic Unit by Taichi HANAFUSA and Mare Isakari.
東京不道徳批評は美術批評家の花房太一と飯盛希が定期開催している美術時評です。
https://www.facebook.com/tokyoimmoralcritic/

Founder × Artist

・June 9 (sat) 19:00~ Shingo ARUGA ×Taichi HANAFUSA
6月9日(土)19:00~ 有賀慎吾×花房太一
finished
Archive Movie
・June 16 (sat) 19:00~ Yusuke SUGA ×Taichi HANAFUSA
6月16日(土)19:00~ 須賀悠介×花房太一
finished
Archive Movie
・June 22 (fri) 19:00~ Goro MURAYAMA ×Taichi HANAFUSA
6月22日(金)19:00~ 村山悟郎×花房太一
finished
Archive Movie
・June 23 (sat) 19:00~ Houxo Que ×Taichi HANAFUSA
6月23日(土)19:00~ Houxo Que×花房太一
finished
Archive Movie
・July 1 (sun) 19:00~ Nobuaki ITOH ×Taichi HANAFUSA
7月1日(日)19:00~ 伊東宣明×花房太一
finished
Archive Movie

Satellite Exhibition

斉藤有吾の斉藤有吾による斉藤有吾のためのCANCER展
finished
Date: 2018.6.15(fri)~6.27(wed)
Fee: 1 Order
PlaceBar星男
時間、イベントなどの詳細は以下をご確認ください。
https://www.facebook.com/events/880624418804765/


EUKARYOTE is pleased to announce CANCER Exhibition, “THE MECHANISM OF RESEMBLING”, through June 8th to July 1st.

CANCER
CANCER is the art organization founded by Taichi Hanafusa with 5 artists, Shingo Aruga, Nobuaki Itoh, Yusuke Suga, Goro Murayam, Huxo Que, and Yugo Sito as a partner.
It is the first art organization in history to break Western fine art by Eastern body to architect new perspectives since the Renaissance. Many projects, such as “Palace in the Sky,” “(A) Room for Meditational Body” and “Tomb for the Arts” are in progress that will create another world different from this present world in addition to make traditional fine arts.
“THE MECHANISM OF RESEMBLING” is the first exhibition by CANCER.

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EUKARYOTEでは6月8日(金)から7月1日(日)までの会期にて、CANCERによる「THE MECHANISM OF RESEMBLING」を開催いたします。

CANCER
2016年、美術批評家・花房太一の呼びかけで、アーティストの有賀慎吾、伊東宣明、須賀悠介、村山悟郎、Houxo Queと共に、パートナーに斉藤有吾を迎えて結成。
西洋のファイン・アートを東洋的身体によって突き崩し、ルネッサンス以来の新たなパースペクティブを獲得することを目指す、歴史上初のアート・オーガニゼーション。旧来のファイン・アートを制作するだけでなく、皇居ラピュタ化計画、古墳プロジェクトなど、いまある世界とは別の世界を創造するプロジェクトが多数進行中。
本展覧会”THE MECHANISM OF RESEMBLING”が初の展示となる。